『よくわからないこと』
小野寺 優元
川俣 正〔注①〕は文化教養主義からくる「お飾りとしてのアート」を否定し、自らの作品でWIP(ウィップ:work in progress / 制作途中)という概念を提示しました。制作途中、すなわち未完成の作品こそ、作家がいかに他者と遣り取りしているかを垣間見ることによって、私たちは作家の思考や心の葛藤を如実に知ることができ、観者にとっては制作を止め思考を閉じてしまった完成作品より作品の内奥への導入口を各所に発見できることから、より深く作品と関わることができます。そして、川俣は作品が未完成であることを放置し、他者に対する迷いや悩みを顕わにし、結論を遅延させ、作品がわかりやすい理論に絡め取られないよう「よくわからないこと」を顕在化しました。
私たちは「よくわからないこと」に直面すると、わかりたいという衝動にかられ、戸惑い、苛立ち、そしてあがいても埒が明かないときは、わかりやすい理論へと逃げ込んでしまいがちです。西欧近代合理主義に基づき敷設された日本の教育制度のもとで教育された私たちは、ものごとを論理的に思考し、原理原則に辿りつくことが善であると考えています。したがって「よくわからないこと」に遭遇すると、二項対立の理論を求めたり二元論を設定するなど、ものごとの細部や例外を排除してなんとかわかりやすさへと到達し、満足し、思考を停止させてしまいます。
ここで問題なのは、省略や割愛などによって思考の外に切り捨ててしまったものごとの属性が、そのものだけが備えている固有の価値であったり、そのものの本質に直結する導入口である可能性が大きかったりすることです。そして委細にこだわらず、また批判に耳を傾けない態度は、正面から反論しにくい口当りのよい「正論」を歓迎します。そして、その後の思考停止状態はいずれ社会を停滞させ、さらにそれは権力や宗教に利用されかねない理論となるおそれがあります。
「よくわからないこと」は私たちの思考の領域を拡大し、多様な価値観の存在に気づかせてくれる、捨て去ったり避けて通ったりしてはならない大切な概念です。他者の存在を認め、向き合い、身をあずけながら思考していくと、私たちの思考は自己の思考の外側にある未知の領域へと誘われていきます。志賀 理江子〔注②〕は、3・11大震災の被災地、宮城県名取市北釜地区の海沿いの松林に住み込み、近隣の村人との日常的な交わりの有り様を写真に記録し、《螺施海岸》としてせんだいメディアテークで発表しました。志賀はその体験のなかで、村人たちがよそ者の写真を撮る行為に対し、「なぜ」を問うことがなく、すなわち「よくわからないこと」を共有しながら交われたことが重要だったと述懐しています。村人たちはどこの馬のほねともわからないアーティストの行為を他者と認め、アーティストは村人たちという他者に身をあずけることで自己の領域が解放され、作品が成立したといえます。中村 天風〔注③〕の「怒らず、恐れず、悲しまず」という格言には、自己の価値観に固執してはならず、他者は常に自己と同じ人間としての存在であるという人が人を許容する寛容の精神がその根本にあります。
35億年前の生命誕生以来、長い地球の歴史のなかで幾度も絶滅の危機に瀕しながら多様な種を生み出すことと異なる個が交わる生殖という戦略で新たなDNAを生みだしながら種と生命の持続性を獲得している地球上の生物という存在に照らし、人間という存在も、自己の利害や欲望から離れ、自身の関心の外への思考を投げ出し、勇気をもって「よくわからないこと」に立ち向かい、他者の思考と交雑して多様な価値を共存させることが、社会の持続にとって不可欠な営為だと思います。このことこそが社会における最も大切なアートの役割なのです。
最後になりましたが、「国際野外の表現展2017‐18」の開催にあたり、多大なご支援とご協力を賜りました関係各位に対し、心より感謝申し上げます。
注① 川俣 正:1953年生まれ。アーティスト。2005年横浜トリエンナーレ総合ディレクター。第40回ヴェネチアビエンナーレ、ドクメンタ8,9などに出展。東京芸大教授を経て、フランス国立高等美術学校教授。
注② 志賀 理江子:1980年生まれ。写真家。ロンドン芸術大学チェルシーカレッジ卒業。2010,13あいちトリエンナーレ出展。2012せんだいメディアテークで個展。
注③ 中村 天風:1876年生まれ。思想家,実業家。日本初のヨーガ行者。
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